セガマークIIIの一体型機もうじき流通?

香港のOEM会社Asian toy sourceセガの許可を得て、その8ビット機を基にしたプラグ&プレイ型ゲーム機をHong Kong toy fairにて公開しました。OEM会社である上、直販せずに他社へゲーム機の生産を背負ってから他社の要求するソフト(現在48本の契約をとっているそう)。”日本の有名デザイナイー”の手掛けた一体型コントローラは2つの形式があるそうです。一方はマスターシステムのアーケドスティックに似た形体で、もう一方はソニックの顔を模型にしたジョイスティックです。販売元の要求によって改造も可能ですし。
その他、セガ8ビット形体ゲーム機も準備中と発表文で書かれています。それはなんとゲームギアが復活しつつあると意味しているのでしょうか。販売社が興味を示すまでその正体が不明ですが。
(原文をDCEmuにて参照)

世界最大のパソコン収集卸売り?

本リンクを参照
このベルギーの収集家の偉大のコレクションの中には、多数のアラビア向けMSX機・ロシアの諸パソコン・日本のVIC-1001(数台も有り)・南米や東欧の様々なクローン機などが売られて、驚くべく勢い良い巨大収集家の生涯の結果ではありませんか。
いや、流石に関心しました。

アミガ、誕生日おめでとう!

先週、AmiGBG2005が行われました。02年から毎年開催されるアミガ集会で、会場はスウェーデンの第2の都市Goeteborg(エーテボリ)です。無論、我々SUGAの数名も参加しました。
会員の大体が金曜日の朝、IC列車でエーテボリへ出発、装備と残った少数の会員がそのよる車で到着しました。一晩泊まったら土曜日の朝に展示会でセットアップを開場前にやらなければなりませんでした。いざ、AmiGBG2005!
このメッセがふつう、復活祭前後に行なわれますが、今年は7月23日まで打ち上げられました。なぜなら、その日付の20年前はAmiga1000が初めて公開されてアミガの正の誕生日となる訳ですから。
開場はリンドホルメン研究町でした。出来たばかりの建物は奇麗でハイテクな装備も備えています。SUGAにテーブルが3つ与えられました。そこに置いたのがペガソス(PowerPCを基にした、MorphOSというクローンOSで走る新プラットフォーム)、アミガ1000(20周年を機に)、タワー化のPPC載せA1200、会長のアミガONE(AmigaOS 4.0を動作する、ペガソスと似た様なPPCマシン)とヒエッルさんの出来たばかりのCD内蔵アミガ1200。前会長がAROS(アミガOSのオープン・ソースの互換クローン的OS)をPCでも展示したりしました。
他のユーザーグループも参加しました。北部のアミガ会ACGがPagestreamってDTPソフトのワークショップを行ないました。ノルエの総合アミガ会NASが自分の同人誌などを販売し、コンクールもやりました。ストックホルムよりエーテボリでメッセを開催する理屈の1つは、オスロから100キロしか離れないことで、ノルエ人の客数が圧倒的です。デンマークのサイトAmiga.dkが珍しいアミガを持って来ました。その中はCDTV(世界初のマルチメディアデバイス?)やDraCo(ビデオ編集向けの強力なアミガクローン)やAccess(5インチスロットにも入るアミガ1200のキオスク向けクローン機)。Accessを初めて自分の目で見てかなり興奮しました。僕も1台欲しいなって...
デモシーンのパーティを企画する委員会Demosphereのテーブルでは様々なデモが常に上映されました。その隣はスウェーデンのポータル・フォーラムAmigaRulezがコンクールをやったりアミガ風の生活用品を売ったりしました。残念ながら、SAK(Svenska Atariklubben)が今年のメッセに登場しませんでした。面白い奴らですから会う事を楽しみにしましたが、噂を聞けば当会のイベントが少し前あったので疲れて来ないのが当然でしょうが。イギリスから来たIntuitionBase.comの人がTotal Amigaという英語の同人誌やアミガONEのケースバッジ等を売ったりし、PPCボードのクラッシク・アミガでOS4.0を展示もしたらしいですがそんな事に気付きませんでした。自分のブースで忙しいところもあるからでしょう。
商業室はGGS-dataとGuru mediatationの両店が新旧ソフトや様々なハードを販売しました。そこでアイコン集のCDやペガソスのマウスパッドを買いました。ドイツの商業誌Amiga Futureの見本誌も気に入って購読しました。AmiDogが新作エミュレータを展示し、プレステのゲームを実機のコントローラでも体験できました。その隣はSuperCPUを搭載したC64でSCPU専用ゲームが有りましたが、自分で試す機がありませんでした。SuperCPU(65c816の16ビット拡張ハード)を見て我らアミガ狂のPowerPC拡張の思いをしました。独逸から、Tales of TamarっていうMMORPGの開発者が参上しました。でもそういったゲームに興味が全然無いので余り気を付けてはいませんでした。
音楽ワークショップの部屋に、現地の音楽家が自分のスタジオを全部詰め込んだのです。ラックに乗ったアミガを積極的に使用する人を見て関心しました。彼が平気でアミガをHD録音機やシーケンサとして使ったのです。昔から音楽がアタリSTの伝統的な分野なのに。アミガで音楽を作ると普通はトラッカー風...
1日中講義やシンポジウムが開催されました。アミガ1のデモグループTBL(The Black Lotus)の主プログラマKalmsが新作のOS4向デモやヒット作のSilkcutを解説し、ゲーム業界の話をしたりし、現在のシーンの状態について述べました。次はIBMPowerPC担当者が自社のCPUの将来について講演しました。しかし、アップルがPPCを落とそうとする今、話の題材は主にCellでした。聞いてたまるのか。AmigaOS 4.0開発陣の主人公・フリーデン兄弟が参上、最終の展開で聴衆を魅せました。本人が2人ともとても人間的に感じて、大企業と本当に違った性格でした。そして、OS4の公式ブラウザ・IBrowseの開発陣のダービッド・ブールストレムがIBrowse 2.4のベタ版を公開しました。僕に一番目立ったのはUTF8のサポートでした。キリル字のページがちゃんと表示出来ましたが、日本語はどうかがまだ不明なんです。2.4の後は3.0になると流石に豪華なブラウザになるでしょう。
持参市場で珍しい鋼鉄造のFDドライブとビデオカードを安く手に入れる様になりました。後はレトロやゲームの部屋があって、そこは歴史中のアミガの様々な機種が展示されました。唯一の欠点はA3000Tでした。同室はゲームのコンクールが行なわれました。Slamtiltでまずいい点数を取って、DeLuxe Galagaへ進む方式でしたが、下手くその僕はSlamtiltで負けに負けたのです。
AmiGBG賞の受賞者になったのがフリーデン兄弟でした。誰も賛成したに違いありませんが、照れる兄弟は、アミガOSが恊働作品だと強調しました。
今年もどう見てもよく出来たメッセでした。しかし!僕の観点から一番の出来事はこれ...
色々なコンクールやクイズの勝者が発表された後、誰も期待しなかった驚くべきコンクールが発表されたのです。それがアミガ(赤)対ペガソス(青)の生クイズでした。聴衆が好きなマシンに従って手を上げる様に言われて、僕が”青”の少数の1人として選ばれ、上がりました。クイズでは、両側に”敵側”のマシンについての質問に答えなければならなかったのです。”敵”のマシンの知識の高い方が勝ちました。その人が僕なのでした。賞品はなんと、新品のMicroAmigaONEだったのです。ですから、僕が今アミガ・ワンのとても嬉しい所有者ですよ。やった!それだけでもないのです:これが最後の最後のミクロA1だそうです。GGS-dataのグッネさんがこの1台だけを手に入れるにかなりの努力をかけたと聞いています。さらにラッキー!
閉場後、客と参加者のほとんどがレストランでバイキングを食べに行きました。アミガ1000のキーボードの形のケーキもありました。最後に、アミガの20周年を祝うために、花火を打ち上げました。

アミガ、誕生日おめでとう!これからもよろしくね。

なんだ

さっき、ストックホルムの1番狭いアパートに引っ越しましたから、持ち物をできるだけ減らさねば。長年にかけてアタリSTを山ほど持つ様になりましたから、それを始め売り出そうと決めました。そして、ようやくTraderaで出品した1台が売られました。購入者のニックネームはなんとPsilodumpで”あれ?”と思いました。だが、驚いたのはその実名でありました。あのユーハ・パサネンがPsilodumpか?時々そのハンドルをVORCなどで見かけているのに、彼が昔のHavanna BBSのCoシスオペで、Da RIPCと言う名乗りでMODを作ったりした元SUGA会員という人物であり得るに気が付きませんでした。
この世には珍しい出来事もありますね。

ヨーロッパBBS文化 その2

今の若者を見て、残念に思います。いくらでも携帯電話やブロードバンドのインターネットがあっても、昔の民間BBSの独特な気分を味わったことがないのですから。
僕自身がBBS世代の末っ子です。1994年にHSTモデムで初めてBBSに電話してみて完全にハマりました。その時点は、BBSの勢いがまだ良かったです。同年、ビルト首相がインターネットでEメールを米クリントン大統領に送ってインターネットを話題にしましたが、僕らモデム野郎の意見によればインターネットは金持ちのネットだけでした。1994年の若者にとって手に入れにくかったんです。ただで接続できるBBSの方が良かったじゃないですか。2年後、全てが変わりました。

スウェーデンのBBS界には、異国に無い”コマンド対メニュー戦争”が、大昔から戦われました。その理由を探すには、大昔の話をしなければなりません。
スウェーデン初のBBSは、ストックホルム大学のコンピュータ室QZの”Q-centralen"でした。初めては大学の研究家達や、外部の会社の研究家だけを迎えましたが、1981年頃に、ABC-klubbenを通して一般人のために会費を値下げして入会しました。ABC-klubben(ABC-80所有者会)がQ-centralenを見て似たものを作ろうとしました。たちまち、ABC-クルッベンの会員BBS”ABC-monitorn"が始まりました。一方、他方の大学生がQ-centralenのようなBBSを設立しようとしてそのBBSソフトのクローンを作り始めました。
Q-centralenのホストソフトはKOM(コマンドの略)と呼ばれ、PDPやDECsystemで動いていました。KOMの由来は大学では無かったのです。もともと、KOMの生まれた場所は軍事研究所FoAでした。KOMの本当の姿は、軍隊の協力通信ソフトでした。となると、インターネットの弟分でしょう。なぜなら、インターネット技術の大部分は米軍の研究資金によって発明されたですから。
民間アクセスが認められた途端、KOMのクローンソフトが全国に出ました。リンヒェーピング大学のパソコンクラブのLysKomや、アミガのNew Touchがその例です。New TouchがNT Proになった90年代初期、NTのクローンソフトが1人のプログラマNiklas Lindholmにより作られました。自分の名前をソフトに付けてNiKomを産みました。ニコムがシスオペ側でもユーザー側でも人気を集めていちはやくKOMクローンの一位を獲得しました。

で、はたしてKOMはどう操作しますか?
ログインした後、プロムトがあります。プロムトの内容は、次行なうコマンドです。他のコマンドを入力せずにただエンターをおすと、コマンドが実行されます。例えば:
(メール を 読む)ー>
*ここでエンターを押せばメールが読めます。または他のコマンドを書けばそういう自由なコマンドを実行します。例えば:
(メール を 読む)ー>つぎ の かいぎ
*そうすると次の”会議”に移動します。ボード又は掲示板を会議と呼ぶのはKOMの由来と関係がありそうです。他の例:
(メール を 読む)ー>つ の か
*次の会議に移動します。コマンドの全てを書かずに済むのです。
(メール を 読む)ー>つぎ の か
 シスオペから一言へ移動します。
 未読のメッセージ数:2
(次 の メッセージ を 読む)
*プロムトの中のコマンドが見てのとおり素直に変わります。あと、スレが自動的に管理されていますからスレを読むのはとても便利。
早い操作法やスレの管理があったため、KOM掲示板の特徴がその長い会話や論争でした。一方、メニュー板のファイルシステムが優れて海賊BBSに最適でした。ファイルを会話より大切にするシスオペ、又はANSIアート好きのシスオペは、メニューソフトを使いました。外国のBBSはほとんどメニュー板だったみたいですが。

現在にも、ニコムBBSが数件あります。みんながtelnet対応なのです。最大はFabbes BBS、その他は残念ながら植物状態です。

ヨーロッパBBS文化 その1

先ほど、hallyさんに”ヨーロッパのBBSはどうだった”と訊かれました。ま、頼まれたってhally自信のBBSネタを読みながら自分で何かを書こうと思いました。
第一、”米BBSと同じだろう”と思われました。でも、それが僕がさっぱり知りません、米国のBBSは電話したこと無いですから。それに、アメリカのBBSへ接続しなくても、”そうじゃない”と言い切れます。なぜなら、ヨーロッパも国によって大部違いました。言葉も政治も文化も国ごとに違いますから、接点があっても相違もかなり多いのです。無論、アメリカのBBSとの接点もありました。BBSソフトはある程度共通だったり、ハッカー達が結構様々な違法的な方法を通じて米国ハッカーと合流したりしました。一般ユーザーの場合だと、唯一の接点はFidonetでしたが。
BBS時代のヨーロッパは、日本と同様、国立電話会社がテレコム市場を独占したのです。日本はNTT、ドイツはDeutsche Telekom、イギリスはBT、スウェーデンはTeleverket(電話庁、現在Telia)だったりしました。当時の電話代もアメリカと比べてとても高かったのです。市外へと電話すれば料金が段々高くなり、多くのユーザーが市内のBBSに集まりました。当時の米国には、市内で長時間かかっても電話代があまり上がってはしませんでした。
両大陸のBBSの違う一点を挙げると、ヨーロッパにはいわゆるオンライン・サービス(AOLやCompuserveのように、全国を覆うBBS又はネット)がそれほどの勢いがありませんでした。なぜかと言うと、ただいま挙げた独占電話会社が大きな理由なのです。テレ会社達は、オンライン・サービスを自分の分野に入れようとして、国によって成功または失敗しました。一番成功したサービスはフランス・テレコムの有名なミニテルでしょう。ミニテルの導入が、パソコン市場が成長するる前に、国民に配った特別端末で人気を得ました。一方英国ではBTと英国郵便局が自分のネットを作ろうとしました。フランスのミニテルと同じシステム?Videotex?を採用しましたが、主な接続端末は普通のマイコンでした。ある程度の人気を集めたものの、90年代まで存続出来なかったんです。イギリスのサービス”プレステル”の一番人気な項目は間違いなく郵便局のマイコン向けサービス”マイクロネット”。
ミニテルを見て、ヨーロッパ諸国が自分でそういったサービスを作ろうとしました。ドイツテレコムBTX(Bildschirmtext=画面テキスト)が90年代にかけて運営されて、結局ISPに乗り換えました。BTXの最終段階はテキストだけじゃなく、画像も混ぜました。
スウェーデンはまずイギリスの路線に乗ろうとして、電話庁と郵便長がともにVideotexサービスDatavision/Postnetを設立しました。英郵便局のマイクロネットもその一部となりましたが、使用費が高かったため、結局失敗しました。Postnetはその後、フランスから影響を受けてミニテルと似た様なシステムを設立して、特別端末”テレガイド”を売ろうとしました。テレガイドの一番人気なサービスはミニテルと同じ、電話帳と郵便帳でしたが、インターネットの民間化の後の90年代後半にテレガイドをオフにしました。
第一弾以上。

書き込み後、こんなサイトを見つけてしまいました。旧ダータヴィショゥンの貴重なプリントです。雑誌や本に乗った画面写真意外、残っている資料が滅多にありません。